にごころ

お手柔らかにm( _ _ )m

ブレイブリーデフォルト2 の感想のような雑記

さっきクリアして悶々してるので、書き出して忘れる。

今の気持ちを例えるなら、ヴァイオレット・エヴァーガーデンの外伝は面白かったけど、本編の劇場版はつまらなかった、に結構近い。

なお、ラスボス寸前のネタバレから記載するので、間違っても未クリアの人は読まないでください。

 

あと僕はBDFFやセカンドはやってなくて、2が初めてなので、にわかに書く。

いやシリーズ経験者がどうとかって話にするつもりはないけどももも。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

--- 念の為の念の為 ---

 

 

 

 

 

 

 

 

 

■ざっくり振り返り

1章: 風のクリスタルに見初められ、スローンさんが犠牲になる

2章: 水のクリスタルに見初められ、水不足成り上がりバーサーカーを処す

3章: 土のクリスタルに見初められ、芸術が倒壊する

4章: 火のクリスタルに見初められ、宗教裁判を暴き、竜がやられる

5章: 各地の手先を屠り、戦争に入り、犯人(姉)が分かり、姫が犠牲になる

 ここだけ異様に要素多いなおい

6章: ヤミノヒトミがっょいことが分かり、cv.ゆかなが引きこもる

7章: 上書きして、倒す

 

■何が気に食わないのか?

全体を通して、薄いこと。いやこの感想が薄いが薄いと感じたもんは薄い。

 

薄さを感じるお話の要素は以下だと考えている。

・ミューザ崩壊の発端になるエドゥナの人間への憎しみはどこから始まったのかが不明

 いや昔は人間好きだった、とかじゃなくてさ〜

・欲望を誘発し、力に溺れる人を惑わすアスタリスク自体の説明がもっと欲しい。

 1~5章と敵でその様を示したのは納得してるが、

 アスタリスクそのものがなぜ存在してるのかがわからない。

 そういうジョブシステムなのかもしれんがそういうことではない。

 あと力は人の意志で〜とかを思うなら薬師や竜騎士を取る理由が見当たらない。

 善人と思える相手なら力は分散するべきじゃないの?

・魔導書と本編のストーリーがよそよそしく繋がってる点

 もともとエルヴィスが目的にしていた魔導書の解析にて、ときたま再現される記憶の

 描写の意図と5,6章でヒロインを守りきれなかった描写の意図が合っていない。

 魔導書が世界を記録してるから再現可能かどうかではなく、なぜその場面で

 その記録が再現されたのか?が読めない(ように感じた)

 その都合の部分がラスボスの意図(貪欲に世界の情報を食い散らかす)

 であるなら納得だけど、それならそういう描写を入れてくれ。

 物語を展開するのに渋々描いてるようにしか見えない。

 

演出面も結構気に入っていない。以下。

・世界の外から参入した主人公の設定。

 船乗りの要素、最後の離島やスリープの探索以外に必要なとこあったか???

 プレイヤーを意識するならもっと記憶喪失でいいと思うけどなぁ...

 他でもない「あなた(プレイヤー)」がそこにいて、先に進んでこれたから

 終わりを迎えることが出来た、という点を世界の外を描いて見せるならば、

 主人公キャラに余分なものをつけずに、観測者だけにすれば良いと思う。

 最近だとグノーシアを見習ってくれ。

・魔導書の扱い。

 7章入るための仕掛けはすこです。

 が、普段セーブしてるのが魔導書って思える要素あったかな...?

 皆察してるの?コミュ力おばけやん。

 魔導書を世界の記録を行える媒体として、統一感をもたせるなら

  プレイヤーのセーブ

   → エルヴィスの旅日記として記載してる 

  アスタリスクで再現される記録

   → ユーザーが保存していない過去の光の戦士のデータをロードさせる

 とかあっても良くない?って思っちゃう。

 あくまでプレイヤーとか世界の外からしか記録できない媒体と仮定して、

 BD2の世界にいる人が上書きできない理由を作らない理由が分からん。

 『王道』って言葉も便利で困るが、そういうもんだからと説明を端折ってる箇所に

 ゲームの仕掛けを入れないで欲しいな...

 

■他雑記

他にも書きたいこととして、ストーリー描写で時間の経過が無視されてることが

そこそこ気に食わないが、↑にまで書いてみて、おそらくJRPGは寄り道するのを前提にしてるから説明いらんやろ^^的に思ってそうに思ってる。

ファンタジーがどうかではなく、戦争を描くのに国と人の関係を事件だけにフォーカスして書くのはもう難しいと思うけどなぁ...多様性(便利ワード)の世の中だし。

 

■テーマについての邪推

とか色々書くだけ書いてみて、BD2って『従わない勇気』を描きたかったのよね?

という確認がしたい。

 

各章を振り返り、

0章: ミューザを捨てて、生き延びる姫の葛藤

1章: スローンを置いて、生き延びる主人公達

2章: 王子や盗賊の暴走を止められなかったニコルや宰相の葛藤

3章: 娘を守れなかった夫婦とガラハード達の思いが餌にされてるところ

4章: 真竜信仰と裁判 マルファが拷問されてる(謎) 

5章: 狂王を止められないロンズデイル, (おそらく)ヤミノヒトミに飲まれた姉

とか近くにいれば後からどうにかできると思ったらできなかった、

とか従った方がマシだと思ったらそうじゃなかった、

という話にそういう意味を感じてるところはある。

 

これは自分が読んだことのある本だと

 「80年代の思想」は「現状」に対して「批判的(否定的)」でした。
 「90年代の思想」は「現状」に対して「関与的(留保付きで肯定的)」だったと思います
 「ゼロ年代の思想」は「現状に対して「受容的(肯定的)」です。「ゼロ年代の思想」は「世界」を「変革」しようとするのでも、「世界」を「記述」しようとするのでもなく、この「世界」を「甘受」する、こう言ってよければ「受け流す」だけです。それは「世界」も「社会」も変えもしなければ分かろうともせず、ただ「こうだからこうなのだ」とトートロジカル(同語反復的)に頷くことから始めます。

 こうした事態は「ポストモダン」が胚胎した、あの「80年代」にこそ源があるのだということです。「ポストモダン」は「大きな物語」の失効により「小さな物語」が散乱し、氾濫するさまを、希望に満ちたポジティブな像として描き出しました。
 しかしそれ以降、多様化と多元化と複数化と相対化が、ひたすらどこまでも進み、どうしようもなくなっていた「90年代」は、かつての「理念 = 理論 = 理想」の位置に「リアル」を代入することで、その悪しき「リゾーム化」を押し止めようとしたけれど、「ポストモダン」は、その「リアル」さえも相対化してしまう。じゃあもういっそ、このどこまでも続く相対化(ポストモダン)を丸ごと認めるしかないのではないか、ということです。 

 

佐々木敦 『あなたは今、この文章を読んでいる』

あたりの考えに対する話なのかな?と思ってる。

それぞれの価値観に対して、自分の足で立っていると思えることが求められるのは現代的なテーマだよなぁとは思ってるが、ラスボスを世界(に引っ張られて情報を食い散らかす化け物)そのものにして見せちゃうのはニヒリズムすぎるというか、古き良き魔王を倒すRPG感はそこでは使うべきじゃない気がするなぁ。

そもそもラスボス戦の演出でもあったが、記録から消されることが問題なんだろうか?

 

どっちかってっと、誰にでも潜む欲望に一人で負けず、誰かと共に歩み続けたいと願うそのための力を行使するための戦いであって欲しい感じがある。

アスタリスク自体をラスボスにした方が良かったのでは?という見解が出てきたところでもはや感想ではなく、願望になってきたし、そこそこ解消したから〆。

 

でもいうて65時間遊んでるからな。

普通にジャマーとかたいあたりゲーとか言われて敬遠するのはもったいないような、

ゼノブレイドをやってくれ。